天敵の話 第3回

中国からのヤノネカイガラムシの天敵導入


Biological control of arrowhead scale by natural enemies introduced fromThe people’s of republic of china

1972年の日中共同声明を踏まえて、1978年には日中平和友好条約が締結されました。これ以前は民間外交による交流でしたが、公的機関による交流が可能になったのです。
前回の話で述べたように侵入害虫の防除にはその原産地からの天敵導入が有効です。今回の話は、柑橘の重要な害虫であるヤノネカイガラムシ(Unaspis yanonensis )の中国での天敵探索と導入の話です。

☆ヤノネカイガラムシとは

ヤノネカイガラムシヤノネカイガラムシ ヤノネカイガラの我が国での発生は明治40年頃とされ、静岡県での発生は大正13年(1924)で田方郡西浦村でした。ヤノネカイガラの加害は寄生樹の葉を赤く枯らしたのち、放任しておけば3,4年で樹を枯死させてしまう恐ろしい害虫であり殺虫剤の有機リン剤が登場するまでは。当時の唯一の防除手段は青酸ガス燻蒸でした。
果樹関係の研究者の機関誌「中央園芸」を主宰した内田悠太氏は辞世の句を詠み「われ死なば煙となりて立ち昇り蜜柑の虫をすべて死さん」を残しています。下の色紙は同氏が亡くなるなる数日前に色紙に書かれたと聞いています。
農薬が無かった当時のヤノネカイガラの防除がいかに大変だったかを物語っているのではないでしょうか?。皆さんだったらどんな辞世の句をのこしますか?


☆中国での天敵探索
 静岡県におけるヤノネカイガラムシは大正13年(1924年)に西浦で最初に発見され、1940年代には静岡県全域で発生が認められるようになりました。この害虫がの中国から侵入害虫であることから、その原産地の中国には、有力な天敵が生息しているのではないかと予測し、多くの専門家により、探索や導入の試みがなされてきましたが、導入は成功しませんでした。中国からの天敵導入はみかん農家にとって永年の悲願だったのです。
1979年に企画した中国での天敵探索は予算化され、昭和55年(1980年)、中国へ「静岡県柑橘害虫利用技術交流団」が派遣されました。農水省からも1名参加した農水省との合同交流団でした。
交流団の派遣にあたって中国からの要望三原則は
 1.中国からの天敵の導入、中国での天敵探索,採集、輸出入は農業科学院生物防除研究室を窓口とする。
 2.天敵の交流は互いに交換をすること。
 3.中国から天敵を導入する国は中国国務院農業部の許可が必要である。
の3つであった。
2の天敵交換については交流団がべダリアテントウ、シルベストリコバチ、ルビーアカヤドリコバチの3種を携行し、中国側に提供しています。


☆導入された2種の天敵

 交流団は1980年9月16日から10月5日までの20日間、四川省、広東省、浙江省などの柑橘産地で探索を行いました。その結果、ヤノネキイロコバチAphytis yanonensisとヤノネツヤコバチ(Coccobius fulvus)の2種の寄生蜂が発見、導入されました, 2種の天敵はわが国での定着の可能性やヤノネに対する防除効果が検討された結果有力な天敵であることが確認されました。
これらの寄生蜂は静岡県柑橘試験場で大量増殖され、全国に配布された結果、現在では南は沖縄から北は千葉や島根県など、柑橘類の栽培されている全域に生息するようになっています。
ヤノネキイロコバチは初めて発見された新種でした。


ヤノネキイロコバチヤノネキイロコバチ

 ヤノネツヤコバチのメス(左)とオスヤノネツヤコバチのメス(左)とオス

(文責:古橋 嘉一)